エッセイ VOL.10 『もうひとりの少年H』



     
初版が出たのが、97年1月だから、もう3年になるが
まだ売れ続けているというベストセラー本
妹尾 河童さんの「少年H」。

好奇心と正義感が、ひと一倍旺盛なハジメ少年が
6歳から15歳くらい迄の少年期に、戦中戦後のニッポンの
社会をするどい眼で観察し、
「この戦争はいったい何なんや!
おとなも新聞もウソつきや!」と

少年らしい純粋な心で時代を活写して、多くの人の心を
とらえた小説である。
家族、友達、先生、隣人たちとの心のふれあいも
生き生きと描かれ、最近はテレビドラマ化もされて、
同年代の人だけでなく、戦争を知らない若い人達の共感も得たと
いわれている。

ある日の夕刊でふと眼にとまった記事。
「最近読んで面白かった本」に、
高校一年生の男子生徒が「少年H」をあげていた。

「僕のおじいちゃんと、同じくらいの人の少年時代の小説なんだ。
それでおじいちゃんにも昔の話を聞いたの。そしたら昔の人が
うらやましいって思ってしまった。」

「えっ、うらやましい?だってあの頃は、家族の誰かが戦争で
死んだり、飢え死にしそうにおなかが減ったり、みんなが
不幸になった時代なんだよ。」

「うん、おじいちゃんもそう言ってた。だけど苦しい生活の中で
みんなエネルギーを全開させて生きてるっていう感じがするし、
毎日予想できない出来事に出合って、人生がすごくドラマチック
にみえるんだ。」

「なるほど、君の人生にはドラマはないの?」

「ない。ない。毎日、学校と塾へ行って、友達とバカ喋って
ワンパターンの繰り返し。それにお父さん見てても、毎日会社
行って疲れて、お酒飲んで帰ってきて、つまらなさそう。だから
大人になりたくないよ。」

彼らは、一応経済的安定の中で、苦労なく育っているけれども、
メリハリのない平板な日常の繰り返しにひどく苛立っているようで
ある。
「少年H」たちの昭和ヒトケタ世代は、戦争、敗戦、高度成長、
石油ショック、不況、ハイテク革命と、彼等が生きてきた時代の
年表と重ね合わせるだけで、自己の人生を劇的に描くことができた。

それに対して、21世紀をになう子供たちは、現代の生活に
生き生きとしたドラマを見出すことができず、不透明で、
のっぺらぼうの未来の人生を予感しているのである…
…と、高校生の話を聞いた教師はそう結んでいる。

でもねえ。高校生のボク。(話のやりとりからは、小中学生くらい
にしか思えないが)
おばちゃんの家で起こったこんなドラマなんかどう思う?

「少年Hのハジメくん」は、戦中戦後をタクマシク生きぬいて、
大好きな絵の勉強を続けておとなになり、今では舞台美術家として
名をはせられ、それはそれでとてもよかったんだけど、

「もうひとりの少年H」はね…

うちの家のハハの部屋。お仏壇の上の壁に2枚のおおきな写真が
飾ってある。ハハの夫40歳と、長男7歳のときのもの。
ふたりとも、もうずいぶんと昔に天国へいってしまった。
おおきな口を開けて楽しそうに笑っているあどけない少年は、
トミオといって、小さい時からとても利発な子供で、母親や
一人の姉と二人の弟にもいつも優しい子だった。

4人の子のハハの名はアキコさん。
私のお姑さんで、末っ子である息子(つまり私達夫婦)
が家を新築した時から、20年近く一緒に住んでいて、
いま86歳でとても元気。そんなに苦労したとは思えないほど
明るい性格で、孫やひまごからも慕われているおばあちゃんである。

最近のウチの家業倒産のさわぎで、しばらく東京にいる娘のところ
にソカイしていたが、この暮れに大阪のわが家へ帰って来た。

このアキコさん、「ピカイチのおかん」と私は(まわりの者も)
評価しているが、28歳(!)の時に、夫が病死して、
残された4人の子供をひとりで育てた。

実家は鹿児島県の、もとは島津藩に次ぐH藩の士族で、
ちいさい時から恵まれたお嬢さん育ち。
銀行の支店長をしていた父親の転勤で、関西に移り住み、
女学校を出てから20歳で銀行員と結婚し、8年のあいだに4人の
子をもうけた。幸せな結婚生活は8年続いただけで…

夫に先だたれ、頼るべき実家も戦後は資産を失い、父母と6人の
妹弟が生活するのに精一杯。
再婚話もないことはなかったが、4人の子の為に
「一人で頑張ろう、手に職をつけよう」と、新聞で見つけた
「代用教員」募集の話に飛びついた。
(戦中で教師の数が足りなかったのだ)

子供たちを夜だけ実家に預け、夜間の師範学校へ通って資格を取り、
末っ子の1歳の私の夫を背負って小学校へ出て…授業中だけ
用務員さんに見てもらって、終わるやいなやあふれ出るオッパイを
赤ん坊の口に含ませ育てた。

そうしているうちに戦争が始まり、小学5年の長女が母親代わりで
食事の世話をし、3年、1年、3歳の弟たちはいたずらざかりの食べ盛り、
男手があってさえ食べ物が口に入らない時代、アキコさんは昼間の
学校が終わると、家庭教師のアルバイトと、夜中はレストランの
お皿洗いもして、無我夢中で子供たちを養った。

時局がら、戦争未亡人が町内に何人もいて、みんなお互いに助け
合ったという。アキコさんは、母子5人で身を寄せ合って生きて
いたので、貧乏は苦にならなかったが、戦争が終わるその年に…

学童疎開先の和歌山県のH市で、親と離れて集団生活をしていた
長男トミオくんが、風邪をこじらして肺炎をおこし、他の町で教師
として学童疎開児の世話をしていたアキコさんが
「我が子危篤」の知らせを聞いて、急遽かけつけた時は虫の息、

三日間、必死で看病したがかいもなく、母親の腕のなかで、
ガーゼに浸した砂糖水を一滴おいしそうに口にしただけで
コト切れたという。アキコさんは、キャラメルやビスケットが
どんなにか食べたかったろうと、苦心して大阪で手に入れて運び、
手に持たせたが、口に入れる元気もなかったという。


8歳のトミオくんは、長男としての自覚からか、毎日のように母や
同じ和歌山の、近くの場所で疎開している姉弟あてに
ハガキや手紙を書いて送り(えんぴつ書きの)…
家族の身を案じ、励まし、いつも大阪の空襲の様子を心配して
たずねていた。

アキコさんから私が、そのトミオくんのハガキや手紙の束を
見せて貰ったのは、ごく最近のことであったが、戦時中の子供の
集団疎開の貴重な生活記録に驚いただけでなく、

8歳の子供が持っている親や姉弟、友達や先生に対する優しい気持、
おもいやりや感謝の心、環境への配慮などに私は強く心を打たれた
のである。

「おねえちゃんとボクとべんきやうのきやうそうをして、
どっちがえらくなって、お母さんを喜ばしてあげませう。」
「ぼくたちは、寮で仲良く遊んでいます。よくけいかいけいほうが
出ますね。お母さん、弟たちをつれて、めんかいにきてください。
しっかり家を守ってください。」
「SちゃんとGちゃん(弟達の名前)のでんぼ(できもの)は
なおりましたか。
二人ともお母さんのいうことをよくきくのですよ」

「ボクはよくおなかがすきますが、寮母先生は、おいしい
ムシパンをつくってくださいます。」
「ボクはさびしくありませんから、こんどめんかいのとき、
シャツと、ずきんの布と切手とびんせんを持ってきてください」

「もうすぐお正月ですね。けふの朝、起きて山をみますと
どこも雪でまっしろでした。ぼくはこんどふく組長になりました。
このごろはてきの飛行機が日本の空をとんできます。
お母さんはまだそかいに行かないのですか」

「お母さん。からだをじやうぶにして、やせないでふとって
ください。ボクもふとってかえります」

古くてボロボロに破れた便箋や、変色したハガキであったが
戦争の色濃くなっていった昭和19年8月から敗戦の20年9月に
児童全員が引き上げるまで…(20年4月、4年生に進級した月に
急病死したのであった…)

空襲を避けるために親元を離れて、大阪市内のM小学校から、
和歌山紀の川沿いのK小学校へ通うべく、寺や旅館へ集団疎開した
小学3年から6年生の約500余名の児童のうちの一人の、
子供らしいこまやかな生活記録であった。

私はその手紙の束の全部を自分の子供達(もう大人になっていたが)
に見せ、姉妹たちに読んで貰い、さらに…

奇遇といおうか、和歌山県のそのトミオくんたちが疎開していた
村の旅館の近くに、私の姉の一人が嫁いでいたので、
姉は学校の先生にそれらを届け、

先生は生徒達に読んで聞かせ、さらに県教育委員会の先生方の目に
触れることになって…

ちょうど、県文化財保護委員会主催の文化祭が開かれたので、
そのトミオくんの手紙と、トミオくんのお姉さんが大人になって
から自分の子供に聞かせるために書いた文集「柿」が、
その文化祭のいちコーナーに展示されて、多くのひとの目に触れる
こととなり、
思いもかけない広がりをもっていったのであった。(つづく)




本日のおかんの法則

「おかんにもまじめに語りたいことがある。」