「ノナは「女の子」
マニスは「甘い。かわいい」…英語でいえばスゥイート。
つまり「かわいい女の子」のインドネシア語である。
「ノナ」が結婚してミセスになると「ニョニャ」になる。
(ノナとニョニャ、何となく微妙な違いがわかるでしょ?)
「きれいな」ニョニャは…普通「マニス」とは言わないで
「チャンティック」…「魅力的。チャーミングな、の意味」
をつかう。
「ニョニャ・チャンティック」とは遠い間柄だったけれど、
おかんもまだ30才になる前の「うら若き」妻であった…。
5才と3才二人の子供を連れて、
半年前に赴任した夫の後を追って、ジャカルタ市に渡ったのは、
昭和40年代の後半のこと。
日本は高度成長期のまっただかにあり、
どこの企業も海外へ多くの人材を送り込み、
中でも商社やメーカーは、
タイやインドネシア、フィリッピンなど東南アジアに力を入れて、
駐在員事務所や合弁企業を増設したため、
当時夫の務める商社では、うちの家族がいた6年の間だけでも、
30家族以上の人々が、入れ替り立ち代わり
インドネシアに赴任していった。
そうした世界中に向けて送り出す、駐在員夫人たちのために
会社は膨大な費用と時間を割いて、
出発の半年前からさまざまな「教育」をほどこした。
「あなたがたは、会社を、ひいては日本国を代表する女性として
どこへ出ても恥ずかしくないように、誇りを持って行動して下さい。
会社がご主人に支払うお給料の半分は、
ご主人をささえる奥様がたへの【駐在員夫人手当て】なのです。」
「メイドさんや使用人を使う場合は、威張らないこと、
だが、なめられないように、堂々としなければなりません。」
…人事の係りの人から「企業戦士の妻の心得」を
コンコンと説いて聞かされ…
さらに会社は、「英会話」と「現地の会話」と「日本料理」と
「テーブルマナー」と、ご親切にも「外国人や日本人との
異国におけるおつきあいの仕方」という講習までやってくれた。
(今ならよく分るが、どこへ行っても難しいのは【人間関係】なのだ。)
その「特訓セミナー」を3ヶ月年間受けたのち、恐れと期待半々の
「心ときめく思い」を抱いて、私は渡航したのである。
ところが、やっぱり…
「聞くと見るではおおちがい」の言葉どおりの
生活が待ち受けておった。
なるほど、大きな家で、大勢の使用人がかしずいて(?)くれる
「奥様生活」には、チガイなかったが…
台所の水道からは、糸ミミズのまじった水が流れ出て、
お風呂の詮をひねると、真っ赤な鉄サビ水がとび出し、
週に一回は停電するため、「灯油ランプ」の下で夕食をし、
(スキヤキのお肉は、田んぼで働いている水牛のかたい肉なんよ。)
電話線が切られるため、しばしば不通になり、
(電線マンが、各家庭へ修理しに来た時に貰えるチップ目当てに、
定期的にわざと切断する。)
街へ出ると、信号待ちの車の前へ物乞いにくる子供たちや
パッサール(市場)で買物をしていると、
その出口のところで待ち受けていて手を差しだす
ハンセン病患者の大人や子供たち。
立派なビル街を一歩裏へ入ると、スラムが密集しており、
そこを流れる汚い川で水浴も洗髪も、その横で排便もしている、
貧しい人々…
学校へ行けない子供達が、裸足で走りまわっているそばを、
運転手つきの高級車で通学する、お金持ちの家の学童たち。
強いカルチャーショックを受けて、着任当初は寝込む日々の多い
多感(?)な若妻おかんであった。
…あれからもう20数年経つ。
6年の滞在中には、オイルショックがあり、ジャカルタ暴動があり
(当時の田中角栄首相が来イされた時、反体制をかかげる民衆の
暴徒によって日本企業が襲われた。
ちなみに大統領は当時からスハルトで、彼はつい最近3年前に
失脚するまで、じつに「ながーい政権」を握っていた。)
個人的には、
出産を経験して、上の子二人は日本人小学校へ入学し
…カルチャーショックから立ち直ったあとは、
(環境になじむのが早いオトクな性格)
がぜん元気が出てきて、「郷に入れば郷に従う」
「何でも見てやろう」の生活に切り換えたのであった。
会話の勉強や、お客の接待やパーティなど、
企業戦士の妻のつとめに真面目に取り組み、
近所に住む外国人の友達もできたりして、
楽しい日々を過ごしたのであったが…
いま、走馬灯のように浮かぶ当時の生活を振り返って、
強く印象に残っているのが、
そんな生活の中で出会ったひとりの少女のことである。
名前は「スラットミィ」…
「南国の花ブーゲンビリアの精」のような女の子
ノナ・マニスであった。
ジャカルタに住みはじめて3年目に入っていた。
日本では、2LDKの団地をさほど狭いとも感じず、
親子4人で暮らしていたのが、とつぜん熱帯の国へ
やってきて、年の若い使用人との共同生活。
最初は、彼らに命令しなければ生活できない暮らしに
非常な戸惑いを感じたが、馴れ、というのは恐ろしい。
自分をそれほど「驕慢なニョニャ」とも責めないで毎日を
送っていくようになっていた。
スラットミィが「子守り女中」としてやって来たのは
私が、3番目の子供を産んで、産院から戻ったばかりの時で、
そのとき彼女は、まだ14才であった。
名前の通り身体つきがスラリと細く
(というよりガリガリに近い、栄養失調だったのかも知れない。)
肩まで真っ直ぐに伸びた黒髪と、大きく見開いた瞳は愛らしいが、
どこか哀しげな風情をただよわせていた。
連れてきた兄のボーイ(執事見習いのような人)の説明では
妹は、田舎で沢山の妹弟の面倒をみていたので、
赤ん坊の扱いには馴れているという。
「赤ん坊の世話と、子供の遊び相手になら使えるかも…」
私はそのかぼそい女の子を、雇う事にした。
それから、我々家族が帰国するまで、共に暮らした3年のあいだに
私は、スラットミィから、どれほど多くのことを学んだであろう。
スラットミィほどの≪ 娘らしいむすめ
≫ には、
私は、50数年生きてきて
いまだかって、お目にかかったことはない。
( 次回へつづく )